コラム

先生はえらい

2005年4月20日

 

花粉症で目がかゆくて、かゆくてまいっていたら、目を洗われるような本に出会った。内田樹という人の書いた『先生はえらい』というタイトルの本である。この本には、えらい先生とはどういう先生かが書いてある。えらい先生とは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でもなければ、「生徒の人権を尊重する先生」でも、「政治的に正しい意見を言う先生」でもない。えらい先生は、「その人が何を知っているのか私たちには想像が及ばない、そういう謎を持っている先生」だと、この本は言う。

その謎に「先生は、私に何を伝えたいのか?」という問いを発すること。そこに私たちの学びの根源があり、そこから人それぞれに様々な答えを取り出すことが学ぶということであり、人間としての成熟と開花の可能性はそこにしかないと内田樹は言う。私は、不遜なことにこれまで「えらい先生」に会ったことがないと決め込んでいたが、この本を読んで、ずいぶんたくさんの「えらい先生」に出会ってきたことを改めて思った。

中国では先生のことを「老師」というが、日中関係がなにやら少しきな臭くなりつつある中で、中国のチャン・イーモウ監督の映画『初恋の来た道』を見た。そして、思った。この映画の主役は貧しさではないか。

映画は、中国の貧しい農村の少女が赴任してきた若い先生に恋をする物語である。村人が総出で学校を作り、やがて授業が始まる。少女は先生に食べてもらおうと一生懸命餃子を作って届ける。しかし、先生はなにか政治的なことで街に連行されてしまう。少女は身分が違うと言われながら、先生がやって来た道で待ち続けるが、雪の中で倒れてしまう。少女に会うために街を抜け出してきた先生は、また街に連れ戻されるが、やがて2年間の拘禁が解けて少女のいる村に帰ってくる。それだけの、どうということはない話なのだが、涙腺がやけに刺激されて困った。

少し前に見た原田美枝子主演の映画『愛を乞う人』もやはりそうだったが、貧しさが映画を輝かせていると思った。それにしても、貧しさというのはドラマの中に置いてみるとなんと豊かな、豊穣なものなのだろう。ドラマには貧しさが欠かせない。いや、現実の生活にも、貧しさが必要なのかもしれない。貧しさだけでは、まいるけれども。