コラム
死ぬまでの宿題
2006年5月20日
高校の国語教師をしている友人夫妻から久しぶりに麻雀に誘われた。麻雀はこのところ隠れたブームになっているらしい。行ってみると、メンバーの一人は女流歌人だという同年配の人だった。麻雀が引けたあと、歌の話になって、子どもの頃啄木の歌集をぼろぼろになるまで愛読していたことや、それからずっと啄木のように夭折したいという望みを抱いていたことなどを話した。「どおりで」と笑われてしまったが、なにが「どおりで」なのだろうか。
さっそく歌集をたくさんいただいたが、歌だけでなく散文もピーンと張りつめた緊張感とゆったりとした優雅さを兼ね備えていて、ものごころついた頃から言葉を研ぎ澄ましながら生きてきたという人のすごさをあらためて思い知った。最近まで見ていた気持ちの悪い自己表白のブログ(自分のは一応そうじゃないつもり)に辟易(失礼!)していたせいか、言葉の一つ一つが、そこに嵌め込まれた宝石のように輝いて見えた。歌ごとに必ず感想を書くことという宿題も一緒に付いてきたので、期限はいつまでですかと聞くと、「死ぬまでに」とのこと。どっちが「死ぬまでに」だろうか。
いま、気持ちの悪い自己表白なんて言い方をしてしまったが、人は結局みんな自己表現をしたくて生きているんだなと思う。しかし天は、文章や絵や彫刻や音楽などで自己表現できるような能力を、世界中の誰もに分け与えられるほど大量に持ち合わせてはいなかったのだ。それで、天は代わりのものを人に与えるしかなかった。その結果、会社を経営することが自己表現になった人もいるし、組織で出世することが自己表現になった人、ささやかな会計事務所を営むことが自己表現になった人もいる。それから、お金を儲けることが自己表現になった人もいれば、家族が自己表現になった人、友人や異性との付き合いが自己表現になった人、旅行や車が自己表現になった人、カメラや陶芸などの趣味が自己表現になった人もいる。
それでも、それは代わりのものでしかないことを人は知っている。どんなに大きな会社を経営していても、どんなに大きな組織の長になっても、どんなに大富豪になっても、ほんものの自己表現には遠く及ばないことを知っている。それで、私たちは才能を与えられた人の文学作品や芸術作品に触れることで自己表現と重ね合わせながら生きていくのだ。