コラム

今はもう秋

2006年9月20日

 

この間、ホームレスみたいな人が忙しそうにケータイで電話してるのを見かけた。いったいどこの誰と話してるんだろう。ケータイの向こうに、ホームレス仲間でもいて、どっかの青テントの中にでも寝っ転がっているのだろうか。それで、どこそこのコンビニに消費期限切れのシャケ弁が残ってるぜとか、警備員がめったに来ないネグラを見つけたんだとか、すっかり都会暮らしに慣れちゃったからもう田舎暮らしはできないねとか、北朝鮮で普通に暮らすのと日本でホームレスやってるのとどっちがストレスがたまらないだろうかとか、今までは好運にめぐまれてつつがなく暮らして来れたけど来年からは大殺界に入るからどうなるか心配だとか、そういう話でもしてるんだろうか。

街を歩くと、ケータイで電話したりメールしたりしている人ばかり、よくもまあそんなに話し相手がいるもんだと感心する。私もケータイをいちおう持ってはいるが、めったにかかってくることはないし、かけることもない。これまで自分がことさら孤独だと思ったことはなかったが、ことによると永年の偏屈と天の邪鬼のせいで世間を狭くしてしまって、すでに孤独な老人の域に踏み込みつつあるのかもしれない。たしかに、友だちといえばもう昔からの悪友のO君とA君ぐらいしか残ってないし。N君とはすっかり縁遠くなってしまって。出版社のYさんもずっと会ってない。あと、I君は向こうが友だちと思ってないかもしれないし。こうやってあらためて考えてみると、なんか友だち少ないよなあ(くすん)。

あ~あ、こんな気分のときは『徒然草』でも読むとするか。なになに、「蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る」って。ゴキブリか何かかと思ったら、我々人間のことだった。世間の人々はこんなにあくせくして、「生をむさぼり、利を求めて」止むことがない。しかし、それがなんになるのだ。待っているのは「ただ老いと死」だけなのに、と言っているのである。

ま、確かに徒然草の作者の言うとおりだ。それで、人の一生に何か実用的な意味があるかといえば、それはほとんどないと思っている。しかし、だからといって、何もせずにいられるわけではない。人がするのは、いわば一生をかけての時間つぶしのようなものなのだが、時間つぶしも長くなると、結局時間つぶしじゃないのと同じくらい、なかなか骨の折れることであるよと思う、今はもう秋である。