コラム

いよよ華やぐいのちなりけり

2010年1月20日

 

このあいだの土曜日は、家の中にいてもうすら寒く感じられるような、ひどく空気の冷たい日だった。近くの中学校で講演会があるというので、あまり準備もせず軽装で自転車を飛ばして出かけたが、目指す中学校は案内図のように近くなくて、行けども行けども着かない。やっとたどり着いた時には遭難者のように冷え切っていた。ところが、講演会の会場に行ってみると、そこは暖房の入っていないガランとした体育館だった。天井の高い体育館の真ん中に数十個のパイプ椅子が無造作に並べてある。すでに席についている人は寒そうにコートを足に巻きつけたりなどしていて、思わず引き返しそうになった。普通の講演会ならここで踵を返すところだが、その日の講師は昔の同級生で元文部官僚のT君である。案内では、「ゆとり教育は間違っていなかった」というような演題になっている。予定時間は1時間だ。氷の中にいるわけでもあるまいから1時間くらいならもつだろうと思って席についた。

T君の話は、いま教鞭をとっている京都の芸術系の大学の教え子たちがいかに自らよく学ぶ学生であるかという話で、それを通して「ゆとり教育の成果が出ている」ことを言わんとしているらしかった。昔、神童という言葉はT君のためにあるのではないかと思ったこともあったが、どうやら二十歳を過ぎたせいばかりではなく、長い役人生活のせいもあるだろう。T君はすっかり普通の人になっているように思えた。結局話は1時間半に伸びて、終わった時には我が身は完全に凍えていた。

えらい目にあったものだと思いながら、自転車を飛ばして家路を急いでいると、あれっ、こんなところに本屋があるぞ。自転車を止めて、ひとしきり本棚をさらったが、案の定ロクな本は置いてなかった。中に一冊だけ岡本かの子の文庫本が置き忘れたように並んでいて、妙に気になったので買った。そして、最初の『鯉魚』という短編を読み始めるともういけない。目が離せなくなって、『金魚繚乱』、『みちのく』と読み進むうち、岡本かの子にすっかり魅せられてしまう。岡本かの子は、作品を読んでも、年譜を読んでも、普通の人ではなかったことがよくわかる。岡本かの子の代表作といわれる『老妓抄』の最後に出てくるのが、この歌である。「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」。