コラム
幻想と幻滅
2010年4月20日
人は何かに幻想を抱き、そしてやがて幻滅する。人の一生はその繰り返しである。幻滅の数が人の顔に深いしわを刻む。それでも人は幻想を抱くのをやめない。それは人が抜けているとか、お人よしであるとか、そういうことではおそらくない。人の脳が目に見えないものを想像する力を備えていることが、幻想を持つことにつながっていると思う。しかし目に見えないものが、目に見えるものになったとき、大方の幻想は幻滅に代わる。
政治も幻想と幻滅の繰り返しであることは、民主党の支持率の動きをみるとよくわかる。民主党政権が現実でなかったときに人々が抱いた幻想は、現実のものとなったとき見事に幻滅に代わったのだ。それからすると、これから先自民党が人々の幻想の対象となることはないだろう。人々は自民党政権の下でもう充分に幻滅を味わっているのだから。そこで、人々の幻想の新たな受け皿を目指して、いろいろな新党が登場しているが、これらに幻想を持つ人は少ないのではないか。なぜなら、今のところこれらの新党に見えるのは手あかのついた現実ばかりで、目に見えない幻想を感じさせるものはないからだ。
幻想の話はこれくらいにして。人の一生といえば、最近、大切に思っていた人が亡くなったと聞いて、目頭が熱くなった。元気によく見えていたころの思い出がいっぺんに押し寄せてきて、悲しかった。あれは何年前だったか。相談したいことがあるといわれて車いすに乗って見えたのだが、たいした相談ではなく帰られて、こちらは拍子抜けした感じでいたら、あとで身内の方から「ただ会って顔を見たかっただけじゃないですか」と言われて、あーそうだったんだと、気付かされたことがあった。そのときのことを反芻すると、私はいつも自分の鈍感さを恥じ入る気持ちを感じながらも、なんだか嬉しいような気持ちに満たされる。
人は死ぬために生きると言ったのは哲学者のレヴィナスだが、それなら人はなんのために死ぬのだろう。おそらく生きるために死ぬのだ。とすると、人は死ぬために生き、生きるために死ぬ存在だということになる。