コラム

チーズの楽しみ

2012年4月20日

 

ときどき行く新宿の飲み屋のカウンターの中に、分厚い広辞苑が一冊置いてある。そんな重くてかさばるものより電子辞書を置いた方が、場所はとらないし引きやすいから、ぜひ電子辞書をお買いなさいとおせっかいなことを言ったことがあったが、店主は頑として聞く耳を持たなかった。広辞苑を作った人が客で来ていて、記念にくれたのだと言って、見るからに不便な広辞苑をときどき引いていた。今思うと、それがよかったのだ。

私は、昔から辞書の類が好きで、身の回りに結構たくさん置いて悦に入っていた。15年ぐらい前のコラムにはこんなことを書いている。

「辞書にはなによりも、書店でこれはという辞書を見つける楽しみがある。また、じっくり引いてみる楽しみがあり、気に入ったものをいつもそばに置いておく楽しみがある。一冊で三度おいしい。そういう辞書の楽しみというのは、孟子ではないが、人生三楽の中に含めたいような気がする。」

ところが、その楽しみを愚かにも私は簡単に手放してしまった。便利を求めて電子辞書を使ったのが間違いだった。電子辞書を使い始めたとたんに本来の辞書の楽しみが雲散霧消してしまったのだ。しまったと後悔しても、もう後のまつりである。楽しみというのは、そういうものなのだ。一度つかんだ楽しみは絶対に手放さないように用心しておかなければならない。なにか一つでもこうした楽しみに出会うことは、僥倖であり、人が生きる上で珠玉の宝物のようなものである。

堀淳一という人の書いた『地図のたのしみ』という本を読むと、そのことがよくわかる。子供のころに電車の路線図に興味を持った少年は、やがて鉄道案内図のとりこになり、しまいには地図の魅力に取りつかれる。わずかな小遣いを工面していろいろな地図を集めたり、戦争で発売停止となった地図を何とかして手に入れようとしたりしながら、少年は寝食を忘れて地図に夢中になっていく。

地図を見るのは誰にとっても確かに楽しい。見知らぬ街の地図は想像力を掻き立て、見知っている土地は見知っている土地で新たな発見がある。しかし地図を見ていて寝食を忘れるというのはなかなかあるものではないし、身近にもそういう人はなかなか聞かない。身近で聞くのは、せいぜいが『チーズのたのしみ』の人ぐらいである。

 

チーズの楽しみ