コラム
台風と因縁
2013年10月20日
今はもうすっかり薄くなってしまったが、まだたっぷりあった頃からだから、ざっと30年来の付き合いになるのだが、私がいつも髪を切ってもらっている人は会津若松の人である。会津若松と私の故郷である鹿児島とは、因縁の間柄であるため、初めの頃は、その人から喉元に剃刀を当てられたりすると、ドキッとすることもあった。
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』を読むと、柴五郎の母や祖母、兄嫁、姉妹が会津戦争で自刃し、残った家族はそれこそぺんぺん草も生えないような下北半島に移住させられて寒さと飢えに苦しみ、絶望に苛まれた様子が書かれている。その下北半島から、柴五郎はなんとか青森県庁に給仕の口を見つけて脱出するのだが、その後、陸軍幼年学校に入る機会を得たことが柴五郎の軍人としての運命を拓くことになる。柴五郎を一躍有名にしたのは、明治33年の義和団の乱のときで、『北京の55日』という映画にもなっているが、暴徒に取り囲まれて籠城した各国の大使館員を実質的な司令官として守りきり、イギリスのビクトリア女王はじめ世界各国から勲章を授与されて、世界で最も有名な日本人“コロネル・シバ”となった。その後出世して、陸軍大将となった柴五郎は、昭和20年の敗戦を迎え、軍人としての責任をとるべく上野毛の屋敷で自決を図るが、老齢のため果たせず、結局その傷が元で病没したのだった。
十年近く前になるが、上野毛の宮城まり子さんのお宅に呼ばれて行ったとき、ああもしかするとこのあたりだったのかもしれない、5千坪もあったという柴五郎の屋敷は、と思ったりしたものだった。
西南戦争では、多くの会津人が薩摩への恨みを果たすために政府軍に志願したともいわれているが、薩長の新政府軍に敵対したのは会津藩の武士階級だけで、一般の領民は会津藩主松平容保の厳しい年貢の取立てに憎しみを抱いていて、むしろ新政府軍を歓迎したというのが歴史の真相らしい。
十年に一度という台風の中、不思議と行く機会のなかった会津若松を初めて訪れた。『八重の桜』の大河ドラマ館というのにはがっかりというより、あきれたが、昔ながらの東山温泉と若松城、そして名物B級グルメのソースかつ丼には満足した。