コラム
訴訟社会のオキテ
2014年11月20日
ここ10年ぐらいで一番、目から鱗の出来事があったとすれば、それは、仕事のためにコミュニケーションがあるのではなく、コミュニケーションのために仕事があるとわかったことだ。といっても、恥ずかしながら、自分で悟ったのではなく、内田樹という人の本を読んで教えられた。私は、毎日人とコミュニケーションを取るために職場に行っていたのだ。そして、これからも、人とコミュニケーションを取るために職場に行くのだと。ちなみに、内田樹は『先生はえらい』や『日本辺境論』などを書いた人で、ノウハウ本やビジネス本の作者ではない。
ところが、中には、コミュニケーションなどムダだとばかり、自分のスキルアップというか、キャリアアップというか、そういう事ばかり考えたり、実行している人がいる。いる? というより、誰しもそういうときはあるし、わかっていても人とのコミュニケーションがわずらわしくなるときがある。だが、いずれ、そうではなかったことに気付くときがくるし、あああのときはまずかったなあ、悪かったなあと反省したりするときがくる。
しかし中には、仕事の成果を自分だけの手柄にして、それが容れられないと、権利の侵害だと職場を訴える人がいる。というより、いたのだ。もちろん、そういうことは、誰しもあるわけではない。
ノーベル賞報道で一躍時の人となったN氏は、ノーベル賞を受賞できるとわかった途端、昔の評判が気になり始めたらしく、訴えた会社に関係修復を持ちかけた。会社に凱旋訪問ならぬ表敬訪問したいと申し入れたのだ。しかし、会社からそんなことをする時間があったら、専門の研究にいそしんだらどうですかと軽くたしなめられた。N氏は、ノーベル賞の権威をもってすれば、かつての職場など組みやすしと見たのかもしれないが、そうは問屋がおろさなかった。
会社側のコメントは、ほんとによく考えられたコメントで、勝負あったと思った人が多かったのではないか。一度出るところへ出て、裁判で争った関係は二度と修復されることはない。それが、我々が直面し、これからますますエスカレートしようとしている訴訟社会のオキテなのである。