コラム

時代閉塞の現状

2015 年6月20日

 

石川啄木の歌集をよく読んでいた小学生のころ、私は石川啄木に強いあこがれを抱いた。啄木のような詩人になって20代で夭折する。極貧の中で肺病で死ぬ。なんと素敵な生き方だろうと子供心に思ったものだった。20代の半ばに沖縄に渡ったときは、北海道を放浪した啄木と同じような気持ちになり、そのままどこかでのたれ死ぬつもりだったが、生き残って、今では啄木の世界とは対極にある会計士などを生業にしているのだから、人の運命はわからない。というより、私には啄木のような詩の才能が全くなかっただけの話だ。

啄木は、しかし失意の人だったと思う。「母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩歩まず」や「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」などの歌で世に知られているが、こんな浪花節みたいな歌をいくらでも作れてしまう自分にうんざりしていたはずで、そんなものはいくら作っても啄木にとっては「悲しき玩具」でしかなかった。啄木はもっと社会的意義のあるものを求めていた。

石川啄木の「時代閉塞の現状」は亡くなる2年前の明治43年、24歳のときに書いた評論である。あれだけわかりやすい浪花節みたいな歌をたくさん作った啄木がなぜこんなにわかりにくいものを書いたのか。自然主義なんていい加減な文学思潮と決別してしっかりとした社会変革の思想を持つべきだというのが言いたかったことなのだろうが、文章はわかりにくい。啄木がこれを書いたのは大逆事件が起きた直後だという。明治政府の強権発動に対する怒りを抑えることができなかったのだろう。かといって、それをあからさまにするのは危険だった。啄木には、人々の頭上にそびえている強大な国家権力が社会を重苦しくしている閉塞感の正体に見えたのだろうか。しかし、明治のころの日本の閉塞感と今の日本の閉塞感とはもちろん違う。今の日本の閉塞感はどこから来ているのだろうか。

身近にある分厚い法令集の山を前にしながら、これが我々を息苦しくしているものの正体ではないのかと考えた。戦後70年、戦争で焼け残った薄っぺらな法令集が、こんなに膨大になり、さらに膨張を続けている。こんな分厚い法令集が隅々まで社会を支配していたら、我々は重苦しく生きるしか道がない。