コラム

私の「西郷ろん」

2018年6月20日

 

大河ドラマの『西郷どん』はさておくとして、西郷隆盛は、生涯で二度南島に流されている。一度目は、三十歳のとき、安政の大獄で追及され入水自殺に失敗して、奄美大島に流された。二度目は、三十四歳のときで、西郷を嫌う藩主の島津久光にうとまれて、徳之島と沖永良部島に流されている。

 

私は奄美大島と徳之島には行ったが、沖永良部島には行ったことがない。沖永良部島というと、高校の時の担任のM先生が沖永良部島の出身だったが、私の中学からの友人の新里君の父親が昔沖永良部島の小学校の校長先生をしていて、M先生を直接教えたと聞いていた。M先生はいつも少しどもりながら世界史を教えていたが、中学二年の歴史の授業のときに、私がマルクスのことについてあまりしつこく質問するので、こういう文献があるから夏休みにでも読んでみなさいとマルクスの著作を教えられて、それから私はのめりこんでいったという因縁がある。

 

高校のころ、授業をさぼって図書室でサルトルを読んでいると、M先生が来て「ヨシユキ、お前東大に行くんじゃないのか」と真っ赤な顔でどもりながらいうので、「僕は東大には行きません」と答えたが、M先生の目を真っすぐ見ることができず悪寒に襲われたような気がしたのを覚えている。

 

西郷隆盛は、征韓論に敗れて野に下ったことになっている。しかし、真相はよくわからないというのが歴史の通説のようである。西郷は死に場所を求めていたともいわれているが、なぜなのか。西郷は、南島で暮らすことによって、富にも名誉にも、自分の命にも執着を持たない人になっていた。それに対して、明治新政府に参画した人たちは、権力欲の塊であった。徳川幕府との戦いに勝った勝利者の特権として、転がり込んできた権力に酔い、大衆を従えて国家を運営することに矜持と恍惚を覚えていた。明治新政府が確立しようとしていたのは、武力と財力を背景にしながら、知のヒエラルヒーを中心として形成される権力構造であった。そのことに対して、西郷は異を唱えようとしたが、現実政治においては立脚点がなく、新政府に反旗を翻す人々とともに敗れるしかなかったのである。