コラム
市電の停留所界隈
2023年2月20日
本がなぜ売れないか分かった。多すぎるからだ。昔は本が少なかった。だから本が売れた。逆説のように聞こえるかもしれないが、六十年あまり本屋ばかり通い続けてハタと気づいた真実だ。
高校生のころ、市電の停留所、確か「脇田」といったと思うが、その界隈にあった小さな本屋に、夕食を終えると自転車を飛ばして毎日のように行っていた。店の本棚に大事そうに収まっていた数十冊のハードカバーの単行本。その中には、大江健三郎や椎名麟三、倉橋由美子やサルトル、吉本隆明が、キラキラ輝いて宝物のように埋蔵されていた。小遣いではとうてい足りず、昼飯代をためては、それらを掘り出しに行ったものだった。
そんなことを思い出していたら、友人のKから電話がかかってきた。「柄谷行人の『力と交換様式』を読んだかい」。ああ、読んだよ。「どう思う」。
前から言っているように、全人類が乗れる電車があったら、全人類が電車の中で何をしているか。おそらく、誰もが小さなスマホをこちょこちょやっているだろうと思う。この営為の意味を読み解けないで、世界の意味を読み解いたことにはならないと思う。ピケティもそうだったけど、柄谷行人もポスト工業社会の、物から情報へ、有形から無形への転化を過小評価している。
「で、どう読み解くんだ」。酔ってるね。「酔ってるよ」。
柄谷行人も言っているように、ほぼ二十世紀末を境に生産の対象が物から情報に、有形から無形に転化した。それは、有形の生産が限界、飽和に達したからなんだ。日本中の道という道を舗装しつくしたり、四国に三つも橋を架けたりしたのも飽和の表れだよ。しかし、なんといっても、人類が生産する有形の生産物の中で最も重要なのは人間だが、これも限界にきている。
有形の生産が限界に達した人類は、無形の世界で生産力を空費する以外に生き延びる道はなくなった。だが、生産力を空費する人類が、それでもまだ人間といえるのだろうか。一種のゾンビではないかというのが、最近、電車の中の風景を見ていて感じていることなんだけど。もっとも、君のような酔っ払いの年寄りは、もうだいぶ前からゾンビといっていい存在なんだけどね。
「そういうおまえさんもだろ」。