コラム

フラココの絵

2022年11月21日

 

子どもというものは親に対して薄情に出来ていると思う。親の立場から子を見た場合にもそう感じるが、子の立場から親のことを思い出してもやはり薄情だったと少し胸が痛む。結局、親の子を思う気持ちだけが、疎ましく思われながらも、過剰に、親身に、注がれるように人間の仕組みはできている。これは人間の社会がそれを刷り込んだというより、神様がそういう仕組みにしたのだと、神様のせいにするしかない。

 

もう二十年ぐらい前になるだろうか。父親からよく自作の油絵が送られてきた時期があった。家が裕福だったら画家を目指していたのだがというのが父の口癖で、晩年は暇に任せて描いた絵を、ほかに送り付けるところもなかったのだろう、息子にせっせと送ってきた。

 

おかげで、アマチュアの絵とプロの絵の違いがよく分かった。送られてきた絵は、どこかバランスが悪く、見ていて気持ちがいいということがなかった。一枚だけフラココと題したブランコの絵があって、モチーフは悪くないと思ったが、ずっと見ているとやっぱりバランスが今一つだった。画家を目指さなくてよかったのではないかと口をついて出そうになったが、さすがにそれははばかられた。

 

押し入れの中はすぐにいっぱいになり、置き場所に困って、仕方なくいっぺんゴミ捨て場に運ぶと、ふっきれたように躊躇がなくなった。今から思うと少しぐらい残しておいてもよかったのだが、そこが子の薄情なところである。親ならば、子の落書きのような絵をいつまでも大事にとっておいたりする。

 

現代は、大宅壮一流に言えば、「一億総表現者時代」である。松本清張のように、「努力することが好きだった」と言えるような人が表現者だった時代は去った。ツイッターやインスタグラムなどのSNSの隆盛もさることながら、続々と登場するお笑い芸人やなりふり構わぬユーチューバーの姿を目にすると、人はそれほどまでに、表現者になりたい気持ちを秘めていたのかと驚く。それは神様のせいなのだろうか、それとも人間の社会がその欲求を刷り込んでいるのだろうか。もし、神様のせいだとすると、人間はもうかつてほど愛されていないのではないかという気がするが、どうだろうか。