コラム
僕たちの失敗
2022年6月20日
僕の前の奥さんは遅刻の常習犯だった。桜蔭の同級生で詩人の井坂洋子の『朝礼』という詩にいみじくもそのことが書いてある。
「安田さん、まだきてない。中橋さんも」。
この安田さんが僕の前の奥さんである。
しかし遅刻をしても悪びれることはなく、いつもこんな風に話を切り出して煙に巻くのだった。「あのね。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、こんなシーンがあるじゃない」とか、「ほら、『白痴』のムイシュキン公爵が、なんて言ったか覚えてる?」とか、「『悪霊』にこういう言葉が出てくるの」とか、チェーホフの『桜の園』とか、『犬を連れた奥さん』とか、トーマス・マンの『魔の山』も多かったし、ホッブスの『リヴァイアサン』のときもあった。
だが、それは僕らの若い頃からの流儀だったので、特に違和感はなかった。ある時期、僕らは多かれ少なかれみんなそんな風に対話をしていたのだ。文学少年、文学少女という言葉は今では死語だが、60年代の文学少年、文学少女はロシア文学で育ったといっても過言ではなかった。
ジェフリー・アーチャーの短編集を読んでいたら、スタンフォード大学で英米文学を専攻する若い女性がヒッチハイクで老人の運転する車に乗せてもらう話が載っていた。今までで一番感動した小説は、十二歳のときに読んだ『怒りの葡萄』だと、女性は打ち明ける。老人は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアや、JFKに会った話をする。えっ、ほんとに?いろいろ尋ねようとしたとき、もう目的地に着いていた。別れ際に老人は言う。僕の作品を最上級の言葉でほめてくれてありがとう。
老人は、『怒りの葡萄』を書いたジョン・スタインベックだったのだ。小説は読んでいるし、映画も見ているが、どういう風貌の老人なのかと思って写真を見てみたら、これがカッコいいのなんのって。しかし、ロシア文学の呪縛が強すぎたのか、アメリカ文学にはあまり引かれなかった。
振り返ると、文学が僕たちを生かし、またなにか重りのように絡みつき跳ぶのを妨げて、生かさなかったともいえる。僕たちは失敗した。何に。それは言うまい。