コラム

とらやの羊羹

2021年7月20日

 

あれはまだ長銀と呼ばれていた長期信用銀行があった頃だから、だいぶ前になるが、当時長銀の新宿支店にいた郷里の先輩の結城さんが、映画『男はつらいよ』の山田洋二監督を招いて何かのイベントを企画したから、ぜひ誘い合わせて来てくれとチケットを何枚か置いていった。「新宿支店で顧客用に用意してある手土産の中では一番上等のものを奮発したんだぞ」といって竹の皮に包んだ「とらやの羊羹」も一緒に置いていった。それで当時親交のあった後藤久美子さんのお母さんと叔母さんをお誘いして、確か新宿の京王プラザホテルの大きな会場だったと思うが、500席ぐらいある中で、けっこう前の方に席をとった。

 

すると、先輩の結城さんが緊張した面持ちでやって来て、耳打ちする。「田中くん、山田監督への質問コーナーがあるんだが、誰も質問しないと困るから、そういうときは合図するから、きみ質問してくれよ」。えっー。自慢じゃないが、私は満場の中で先陣を切って質問するようなキャラは持ち合わせていない。しかし、一期や二期ならともかく、結城さんは四期上の先輩である。四の五の言える立場ではない。

 

何を質問したらいいか。頭の中はもうそのことでいっぱいになった。

 

それから、駆け足で時間が過ぎて、「質問コーナー」がやってきた。司会者が「こういう機会ですからどうぞ」と呼びかけるが、シーンと静まり返って誰ひとり質問する者はいない。結城さんが険しい目つきで合図を送ってくる。仕方なく重い手を挙げた。

 

そしておずおずと質問した。「山田監督の映画は、家族をテーマにしたものが多いですが、監督ご自身のご家族はどんなご家族ですか?」。「私の家族ですか。そんなのはつまらないからいいですよ。他に質問はありませんか」。ああ、だからしたくなかったんだ。

 

しかし、しかしである。もし、もう一度機会があったら、今度はこう質問しようと思う。「山田監督の映画は、男の失恋をテーマにしたものが多いですが、監督ご自身の失恋はどんな失恋でしたか?」そしたら、監督は、また答えるだろうか。「私の失恋ですか。そんなのはつまらないからいいですよ」。