コラム

三碧会

2020年12月18日

 

ジョン・ル・カレが亡くなったというニュースが新聞に載っていたので思い出した。今から40年以上も前になる。職場の先輩のOさんから、『寒い国から帰ってきたスパイ』を読んだかと聞かれたのが、ジョン・ル・カレを読むきっかけとなった。Oさんは、新聞記者上がりでミステリーの翻訳なども出していた。その頃ちょっとしたブームになっていた九占星術でいうと、私と同じ三碧木星で私より十八歳上だった。

 

同じ部署にもう一人、Kさんという九歳上の三碧木星の先輩がいた。Kさんは、出版社で高橋和巳などの純文学の編集者をやってきた人だった。

 

それで、三人で三碧会(さんぺきかい)というのを結成して、ときどき飲んでいた。いや、ときどきなんてものじゃなかった。三碧会は、やがてOさんの仲間の同世代の人たちも加わって、にぎやかになった。その頃は、飲むといえば議論だった。石川啄木の「はてしなき議論の後」のように。お前は何をしているのだ、と誰もが自分に問い、相手に問いかけていた。

 

満州からの引上げ者だったOさんは、酔うと必ずと言っていいほど、戦乱のどさくさで小学校の分数の授業が受けられず、長じても分数の計算だけはおぼつかないという話をしていた。それから新聞記者時代、地方の支局にいていつも給料が少ないと思っていたら、支局長に何年も抜かれていたという話もである。

純文学のKさんは、いつも朝が遅く昼頃出勤していたので、とうとう社長が業を煮やして、バックヤードに行って鍛えなおして来いというはなしになり、三碧会でもそれを勧めたが、Kさんは辞表を出して、また純文学の世界に戻って行った。しかし、やはりそれが水にあったらしく、しばらくして純文学の編集者として鳴らしているのを知った。

 

その頃、二十代の半ばだった私から見ると、二人はずいぶん老成しているように見えて、自分だけさまよっているように思えたものだが、今から思うとそんなことはなかったのだ。Kさんは三十代半ば、Oさんも四十代半ばで、まだまだ彷徨の季節の真っ只中だったのである。