コラム
地上の幸福
2020年5月20日
事務所の井田さんのお兄さんは井田茂という天文学者である。いつだったか、何の気なしにテレビを付けたら出演していて、きれいさっぱりと何もない大学の研究室が映っていた。インタビューに来ていた爆笑問題の太田が「なぜ、この研究室には、本も望遠鏡も何もないんですか」と尋ねたら、「私が研究していることは本には書いてないし、望遠鏡では見えないから、何もないんです」。「じゃあ、ここで何をしているんですか」と太田が問うと、「考えているんです」と答えたのを聞いて、ああ、世の中にはなんともすごい人がいるもんだと打たれたが、最近自分でも星を探すようになってからいっそうすごいと思うようになった。
星を探すといっても、私のは、夜空を見上げて、裸眼0.03、矯正視力1.2のおぼつかない目を凝らして、「おっ、あそこにあるぞ」。「あっ、あっちにもあった」。せいぜい二つか三つ、多い時には七つぐらいの星を見つけて、ひとり喜ぶぐらいが関の山である。困るのは、見つけた星が何の星だかよくわからないことだ。世の中の、たいていのことは本でわかるが、先達がいなければわからないものもある。車の運転と、飛行機の操縦と、外科手術の仕方と、星と、あとなんだろう。
昔、中学高校の地学の先生は山口志摩雄、あだ名がスッタンという白髪のえらい先生で、いつも白衣を着てニコニコしていた風貌は今でも思い出せるが、その頃は天上には全く興味がなかったので、先生の話はまるで聞いていなかった。その頃は、頭の中は地上への興味ではちきれそうになっていたのだ。それから、幾星霜。
今になって分かった。地上は、痛みと苦しみと怒りと悲しみと寂しさとむなしさに満ち満ちているが、天上にはそれはない。瞬いている星のいくつかと、のっぺらと明るい月があるばかりである。しかし、地上にいて、私は不幸なだけではなかった。幸福な気持ちになったことも、一度や二度ではない。
人を幸福にするものは何か。言葉だと、あるとき気づいた。なぜ、言葉なのか。それは、人の原料が言葉だからとわかった。人は血と肉と骨と、そして言葉でできている。