コラム
日本の橋
2020年2月20日
靖国神社の大鳥居を見上げながら、私はふいに若い頃読んだ保田輿重郎の『日本の橋』のことを思い浮かべた。それは、こんな書き出しで始まる。
「東海道の田子浦の近くを汽車が通るとき、私は車窓から一つの小さい石の橋を見たことがある。橋柱には小さいアーチがいくつかあった。勿論古いものである筈もなく、或いは混凝土造りのようにも思われた。海岸に近く、狭い平地の中にあって、その橋が小さいだけにはっきりと蕪れた周囲に位置を占めているさまが、眺めていて無性になつかしく思われた。」
日本のどこにでもある小さな哀れっぽい橋を取り上げて日本文化の特質を論じた保田輿重郎の『日本の橋』が書かれたのは、昭和十一年のことだった。保田は、「日本の橋は概して名もなく、その上悲しく哀っぽい」と述べながら、橋にこと寄せて次のようにも書いている。
「来るべき日になって日本の言葉で行われてゆく政治も文化も苦しく、そのことばが何かたいへんな重荷となることと思われる。この複雑なことばは日本の近代政治を流産するだろうし、日本のことばの世界で始められる政治の表現も、途方もない天才でも出なければ、もう何ともならぬことかもしれない、しかもこの重荷は光栄の父祖の歴史である。」
保田の、西欧近代文明に蹂躙される重苦しさの中でやがて来る破局を暗示するかのような記述に驚かされるが、昭和十一年といえば、陸軍青年将校らによる二・二六事件が起きた年でもあり、その三年前に日本は関東軍の満州占領に関連して国際連盟を脱退、日本は国際的な孤立の中で西欧列強の包囲網に締め付けられていく状況にあったのである。
保田の言う「近代政治の流産」が何を指すのかわからないが、そうしたことの結果として戦争が起き、「貧しいけれど美しい国」であった日本は、完膚無きまでにたたきのめされて敗れた。そのときから、国のために死んだ死者の存在が日本のアイデンティティーとなった。米国に従属して生きていくしかなかった日本と日本人にとって、かつて米国と戦い日本を守るために死んでいった多くの兵士たちがいたということが日本と日本人であることの証になった。それは今も変わっていないのだろうか。靖国神社の大鳥居を見上げながら、そんなことを思った。