コラム
その顔が見たくてならない
2019年11月20日
頼山陽の書は、「なんでも鑑定団」に出品されて、百万とか二百万の高い評価が付くこともあれば、偽物として五千円で片づけられることもある。頼山陽とは、そも何者ぞ。頼山陽は、広島藩の儒学者の子として幼少のころから詩文の才に恵まれた境遇であったが、若い時から名声を天下に轟かせたいという野心を抑えることができず、脱藩して京都へ出奔し、連れ戻されて自宅に幽閉された。このときに著述を始めた『日本外史』という武家の歴史書は、読みやすい本だったために江戸時代のベストセラーになった。あの詩吟の「べんせい、しゅくしゅく、夜河を~」も、頼山陽の作である。
森鴎外は、頼山陽を俗物の野心家と見て好まなかったようだ。しかし、頼山陽が郷里を出奔して江戸に放浪したとき世話になった井沢蘭軒のことは史伝に著している。二十四歳の井沢蘭軒は、父親に命じられて中国の隋の時代の医学書を筆写していたが、それを居候に来ていた十八歳の頼山陽にも手伝わせた。鴎外は、そのとき山陽がどんな顔をして医学書を筆写していたのか、「わたくしは、当時の山陽の顔が見たくてならない」と書いている。天下に名声を轟かせたかった山陽が、筆写など面白かろうはずがない。すぐに、井沢の家を出て狩谷棭斎のところに移った。鴎外の『渋江抽斎』には、抽斎が井沢蘭軒に医学を学び、狩谷棭斎に儒学を学んだことが記してある。ここで、もう一人の登場人物、北条霞亭にも触れておかなければならない。井沢蘭軒の親しかった漢詩人に有名な菅茶山がいたが、この菅茶山の同門であったのが頼山陽と北条霞亭である。それで、霞亭の墓碑銘は、山陽が書いている。
森鴎外の史伝三部作のうち、『渋江抽斎』と『井沢蘭軒』を近代日本文学の最高峰だと評したのは作家の丸谷才一である。史伝のもう一つは、『北条霞亭』だが、これを最高峰だとしたのは作家の石川淳である。石川の説によると、鴎外は北条霞亭について書いているうち、この人物が俗物だと分かったが、これが人間だと、そこが素晴らしいのだと思って書き続けた。しかしそのうち、鴎外は自分も俗物だったと気づいて困った様子が表れているところに、この作品の文学的価値があるというのだから、石川淳もすごい。